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「コピーライターの左ポケット」の
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コピーライターの裏ポケット
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2010年08月15日
小松洋支 10年8月15日放送

ローストチキン
小松洋支
母が青い水玉のワンピースに着がえると、デパートだった。
たいていは贈答用の海苔だの、化粧石鹸詰め合わせだのを買いに行くのだが、
ときには「大棚ざらえ」と書かれたチラシを見て、
急に出かける決心をすることもあった。
デパートは着くまでが、まず楽しい。
遠くに小さく見えていたアドバルーンが、川を越えるとどんどん近づいて来る、
そんな景色を、連結器のすぐ横の席で、窓枠につかまりながら眺めるのだ。
けれども最大の楽しみは、買い物が終わってから食堂で食べさせてもらう
アイスクリームだった。
ふだん食べている紙カップのそれとちがって、
銀色のたかつきにドーム状にもられた小ぶりなアイスクリームは、
ねっとりとたまごの味が濃く、バニラがいつまでも鼻の奥で香った。
その日、ぼくは食堂の前で母を待っていた。
母がなぜそこにいなかったのかは覚えていない。
天井で回っている三枚羽の扇風機をながめていると、男が二人やってきた。
彼らはぼくの頭越しにウインドウをのぞきこんでいたが、
やがて野球帽をかぶった男が、しわがれた声で叫ぶように言った。
「ローストチキンといこか」(注:ここ、関西弁なんです)
見上げると、くしゃくしゃになった初老の男の顔があった。
目も眉も深いしわの中に埋もれ、
白髪まじりのひげが頬にも顎にもはえている。
口の周りが落ちくぼんでいるのは入れ歯のせいだろうか。
男は太いズボンの股を開くようにして体を上下させ、
両腕をちいさくふりながら、世にもうれしそうな顔で繰り返した。
「ローストチキンといこか」
記憶はそこで途切れている。
おそらく、待ちくたびれたころに母が現れ、
ぼくはアイスクリームを、母はホットケーキを食べ、
昭和30年代の夕暮れの
国鉄に乗って帰ったのだろうと思う。
その日、ぼくは幸せだったに違いない。
四畳半の蚊帳の中で、幸せな眠りについたに違いない。
ただ、その日以来、「ローストチキン」は
ぼくにとって、もの悲しい響きをもつことばになったのだった。
Voice:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:小松洋支
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