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コピーライターの裏ポケット
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2011年08月28日
上田浩和 2011年8月28日放送
ハブさん
上田浩和
将棋のハブさんは、ぼくのことを、こうじくんと呼ぶ。
ぼくの本当の名前はそんなんじゃないのに、
ハブさんは勝手にそう決めている。
なんでこうじくんなんだろう。
たぶん意味なんてないんだろうけど。
「ねえ知ってる?こうじくん」と言うハブさんの声がした。
ハブさんは、さっきから滑り台の一番高いところにしゃがんで、
将棋の駒をひとつずつ滑り落としていた。
ぼくは近くのベンチに座って、
その駒たちがスキーのジャンプみたいに
滑って飛び出して砂場に落ちるのを飽きもせず眺めていた。
スーッと滑る駒の音のあとの、駒が駒にぶつかる音が心地よかった。
ぼくとハブさんは公園にいた。
土曜日の夕方だった。ふたりの他には誰もいなかった。
「なにを?」とぼくは聞いた。
「ぼくが名人だってこと」とハブさんは言った。
「知ってる。将棋うまいんでしょ」
「うん。強いよ」
ハブさんが将棋の名人であることなら、誰でも知っている。
それだけじゃなく、あえて言わないけどハブさんが子供の頃、
公文教室に通っていたこともぼくは知っている。
あと、奥さんが元芸能人であることも。
「ずっと正座してるのたいへんじゃない?」
「もう慣れたよ」
気がつけば、砂場にはもう駒が山のように積み重なっていて、
ハブさんはいつのまにかぼくの隣に座り、ぼくの右腕を噛んでいた。
さっきから痛いなと思っていたのは、そういうわけだったのか。
血がつーっと流れている。
ぼくはあえて聞いてみた。
「ハブさん、公文教室通ってたでしょ。子供の頃」
するとハブさんが、勢いよくうなづくものだから
歯が腕に食いこんで痛かった。聞かなければよかった。
噛むことにも飽きたハブさんは、
ぼくの血が止まるまでぺろぺろ舐めた後で、
ふとなにやら歌いはじめた。
飛車とか角が出てくるへんな歌は、
ハブさんの即興だったのかもしれない。
顔をあげると滑り台の向こうに夕焼けがあって、
隣には着物を泥だらけにした将棋の名人がいて、
右腕でまだずきずきするできたての歯型はにおうと少し臭くて、
目を閉じると聞いたことのない下手な歌が聞こえてきて、
風はなくて、なんだか素晴らしい夏の夕方だった。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
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