コピーライターの裏ポケット

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2011年10月16日

小松洋支 2011年10月16日放送

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一文字
           小松洋支

夏が終わりに近づいていたある晩、母はわたしを連れて縁日に出かけた。
お寺の参道の両側には所せましと夜店がならび、
裸電球の光の下で、大勢の大人や子どもが笑いさざめきながら
店をのぞきこんでいた。

その晩、母はやさしかった。
金魚すくい。ヨーヨー釣り。輪投げ。なんでもやらせてくれた。
どれかひとつにしなさい、と言われるのがいつものことだったのに、
おはじきも、りんご飴も、リリアンも買ってくれた。

それは明日から母がいなくなるせいだとわたしは知っていた。
だからわざと、大人ものの柘植の櫛を欲しがって母を困らせた。
母はかわりに赤い花飾りがふたつついたゴムの髪留めを買って、
前髪を結えてくれた。
わたしはべそをかいた。
櫛が欲しかったからではなかった。

次の日、目が覚めると母はもういなかった。
祖母が台所で洗い物をしていた。
寝間着のまま柱の陰に立っているわたしを見ると、近寄ってしゃがんで、
そっと髪をなでてくれた。

それからは毎日、祖母といっしょだった。
買い物に行くときは、ぬいぐるみを抱いてついて行った。
祖母が洗濯物を干しているときは、足もとに座りこんで空の伝書鳩をながめた。
朝ごはんも、晩ごはんもふたりで食べた。
父は仕事が忙しくて、家にいることはほとんどなかった。
あとで聞くと、その頃、大きな橋をつくっていのだそうだ。

ある日の夕方。
同い年の女の子がいるご近所の家から帰ると、ちゃぶ台の前に父がいた。
風呂上りらしく浴衣姿で、団扇を使っていた。
父を見るのは本当に久しぶりだった。
ちゃぶ台にはビールの小瓶と佃煮の皿が置いてあり、
日に焼けた父の顔は、ビールのせいか赤くほてっていた。

父はわたしを手招きして、あぐらをかいた膝の間に座らせた。
わたしは、しばらくぶりに会う父に、うれしさよりもきまり悪さを感じ、
うつむいて体を固くしていた。

と、父がちゃぶ台の上から一枚の紙をとってわたしに見せた。
半紙に毛筆で、横棒が一本、引かれていた。
父が自分で書いたものらしかった。
かすかに墨汁の匂いがした。

「どうだ?」と父は聞いた。
わたしはただうなずいた。
父は笑いながら「そうか、そうか」と言い、
大きな手でわたしの頭をつかんで揺すった。
母に買ってもらった赤い花の髪留めが、父の手のひらに埋もれた。
祖母がエプロンで手を拭きながら台所からこちらを見ていた。
網戸から入ってくる夜の空気のなかに、もうこおろぎの声がまじっていた。


その秋、一(はじめ)、という名前の弟が、わたしに生まれた。



出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/


タグ:小松洋支
posted by 裏ポケット at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小松洋支 | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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