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コピーライターの裏ポケット
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2011年11月13日
小松洋支 2011年11月13日放送

姉
小松洋支
ATMから出てきた預金通帳をめくっていて、あることに気がついた。
水道代と電気代、ガス代が2回支払われている。
2重に払っているのでないのは、金額が違うから分かる。
これまで気づかなかったが、前の月も、その前の月もそうだ。
いったいどうしたことだろう。
水道局に電話すると、応対に出た年かさの女性が困ったような声で言った。
「どちらもおたく様の口座から引き落とすよう手続きされているのですが」
ぼく以外に、ぼくの口座から、誰かが引き落としをしている?
「その書類を見せてもらえませんか」
係の女性は、
上司と相談するあいだ単調な音楽をしばらく受話器に流したが、
やがて戻ってきて大井町営業所までおいでくださればお見せします、
と答えた。
その日はゼミのあと、指導教授の研究室で実験の助手もしたので、
水道局で教わった町についたときは、すでに日が暮れかかっていた。
私鉄沿線の、各駅停車しか止まらない小さな駅で、
改札を出ると、
さびれた不動産屋と人気のないパン屋の他にはめぼしい商店もなく、
幅の狭い運河の水に、紫とオレンジ色に渦巻く夕空が映りこんでいた。
町は細い路地が不規則に入り組み、番地が急にとんだりするので
目的の住所はなかなか見つけることができなかった。
やっと探し当てたアパートは、古めかしい2階建てのモルタル造りで、
鉄の階段を登ってすぐの201号室が、めざすそれだった。
郵便受けに名前が書いてある。
ぼくと同じ名字の下に、見覚えのない女の名前。
ドアの横には赤い傘がたてかけてあった。
窓に電気が灯っていたので、中に誰かがいるのは間違いない。
ぼくはドアホンのボタンに指を近づけた。
これを押したら誰かが顔を出す。
ぼくの口座から引き落としを指定したのが、その人だ。
しばらく手をボタンの前で静止させてドアの前に立ち続けていたが、
迷ったあげくそのままアパートを後にした。
「こういう人、知ってる?」
部屋に帰ると、ぼくは田舎の母に電話してみた。
アパートの郵便受けにあった名前を伝える。
母は長く沈黙した。
ぼくと兄との間には、女の子がいるはずだった。
その子は生まれたときすでに息がなかった。
生まれたのが女の子だったらこんな名前をつけようと、
父と母が考えていたのが、
ぼくがアパートで見た名前だったのだ。
気がつくとぼくは家を飛び出していた。
あてもなく町を歩きまわり、まだ開いている花屋を見つけ、
飛び込んで薔薇を買った。
部屋に戻って花をコップに挿す。
何に供えていいか分からないので、預金通帳をテーブルに置き、
その前に供えた。
翌月、公共料金の引き落としは、1件。 ぼくのものだけになっていた。
預金通帳を見ながら、ぼくは泣いた。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:小松洋支
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