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2013年06月16日
小松洋支 2013年6月16日放送

風
小松洋支
留学したのはインディアナポリスだった。
ニューヨークとか、ロスとか、シカゴとか、
大都会はちょっと気が引けたのだ。
英語で日常の用を足せるようになるまで、半年かかった。
授業はヘビーだった。
毎日のように宿題が出る。
1週間で本を何十ページも読まなくてはならない。
辞書を引き引き、レポートを書く。
寝るのはだいたい3時過ぎだった。
寮のルームメイトはジェーフンといった。
フルネーム、尹戴薫(ユン・ジェーフン)。
韓国人だ。
彼も英語で苦労していた。
外出する時間が惜しいので、
僕とジェーフンは交替で食事をつくった。
といっても、パンにベーコンとレタスをはさんだり、
パスタに缶詰のトマトソースをかけたり。
そんなところだ。
あるとき僕が「ドラゴンボール」のTシャツを着てキャンパスを歩いていたら、
クルーカットの大男が叫び声をあげて突進してきて、
ぜひそれを譲ってくれと言った。
小さすぎてきみには着られないよ。
着るんじゃない。飾るんだ。
それがテッドとのはじめての会話だった。
テッドは僕らの寮の3階に住んでいて、出身は東隣のオハイオ。
両親が離婚して実家と呼べるものがなくなったので、
とりあえずインディアナ州に来てみたのだと言っていた。
テッドは中古のダッジを持っていた。
ふだんはガールハントに使っていたが、
気が向くと僕とジェーフンをドライブに誘ってくれた。
いちばん鮮明に覚えているのは、3年生の夏。
ミシガン湖に連れて行ってもらったときのことだ。
地図で見るとちょっと北に行けばいいように見えるが、
実際には埃っぽい道をうんざりするほど走るのだった。
それでもミシガンの岸辺に立つと、湖はとほうもなく青く、大きく、
涼しい風が絶え間なく吹いていた。
なんて気持ちいい風なんだろう、
僕は心のなかでつぶやいた。
そのとき、ジェーフンが何かを口ばしった。
え、いまなんて言ったの?
「風が気持ちいい」って、韓国語で言ったのさ。
風って、なんて言うの?
「パラム」。
テッドの方を見ると、
まぶしそうに目を細めて湖の上のさざ波を眺めていた。
僕は思った。
テッドには、いま、きっと「wind」が吹いている。
ジェーフンには、いま「パラム」が吹いている。
そして僕には、いま「風」が吹いている。
湖から吹く風のなかで、
僕は、
僕らは、
なぜだかとても幸福だった。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:小松洋支
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