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「コピーライターの左ポケット」の
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コピーライターの裏ポケット
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2013年08月04日
小松洋支 2013年8月11日放送
藤
小松洋支
風呂からあがって浴衣に着替え、
ひんやりした旅館の廊下を歩いて行くと、
暗い蛍光灯の下にちいさな売店があり、和菓子を売っていた。
大福か饅頭のたぐいだろうか。
少しずつ色の違う和菓子の包みには
「桜」、「牡丹」、「藤」、「菊」という名前が書かれている。
手近にあった「藤」をひとつ買って、
食べてみようと包みのセロファンをはがす。
と、突然、中から大きな猫が急速に膨張しながら飛び出してきた。
和菓子に見えていたのは、小さく小さく丸められた猫だったのだ。
紫のようにも見える薄いグレーの猫は、掌からひらりと飛び降り、
廊下の角を曲がって、走り去っていった。
茫然とそこに立っているわたしの耳に、すすりあげる声が聞こえてくる。
売店の売り子の少女が、泣いているのだ。
なぜ泣いている?
猫が逃げたからか?
わたしはうろたえ、すぐに猫のあとを追うことにする。
角を曲がってみると、廊下は予想外に長く、
遥か先まで続いていて、猫の姿はどこにも見えない。
「ふじー、ふじー」
大声で呼ぶと、近くで猫の鳴き声がした。
左手の座敷からだ。
駆け寄って襖を引き開ける。
いちめんのぬかるみが、わたしの前にひろがっていた。
ついさっきまで雨が降っていたらしく、
あたりには水の匂い、土の匂い、湿った植物の匂いがたちこめ、
遠くの方に低い丘と町の輪郭が、薄墨色に煙っている。
目の前に、真っ白なスーツを着た男と、
真っ白なウエディングドレスを着た女が、
こちらに背を向けていた。
服に泥がはねないように細心の注意を払いながら、
地平線の方に向かって
ごくゆっくり、一歩ずつ、スローモーションで、遠ざかっていく。
「ふじー、ふじー」
もう一度、大声で叫ぶ。
どこかで、かすかに、猫の声がしたような気がするばかりだ。
ああ、こうなっては、もうあの猫を捕まえることはできないな。
諦めておそるおそる売店の方に戻ってみると、
少女はさきほどと同じ格子縞の着物を着て、
さきほどと同じようにわずかに背をかがめて立ったまま、
すでにからからに干からびた
即身仏になっているのだった。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:小松洋支
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