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コピーライターの裏ポケット
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2014年09月21日
小松洋支 2014年9月21日放送
ナフタリン
小松洋支
あたりはうす暗かった。
銀色の細い柱が等間隔で何本も立っていた。
遠くのほうの柱は、ぼうっと白く、
月の光に照らされているように見えた。
柱の表面はなめらかで、触れるとひんやりと冷たかった。
足がかりになるような凹凸(おうとつ)はどこにもなく、
登るにはかなりの困難が予想された。
柱の上の方から、かぐわしい匂いが漂っていた。
空腹を誘うような、なんともいえず甘美な匂いだった。
見上げると、柱の尽きるあたりを黒い影が覆っていた。
柱から柱へとめぐって分かったことだが、
どの柱の上にもそれぞれ黒い影が覆いかぶさっていて、
ちょうど大きなパラソルが並んで立っているような具合だった。
影の形は柱によって微妙に異なり、
それぞれに固有な模様があるようにも思われた。
とある柱の上からは、ことによい匂いが降りしきっていたので、
その魅力に抗うことができず、柱を登る決心をした。
最初は自分の背丈くらいまで登るのが精いっぱいだった。
登っては滑り落ち、登っては滑り落ち、
時には仰向けに倒れて、しばらく起き上がれないこともあった。
けれども匂いの吸引力が本能に働きかけ、
何十回も失敗を繰り返したのち、
気がつくとなんとか柱の上の方までよじ登っていた。
目の前に、影の実物があった。
それは光沢のある黒い絨毯のようだった。
雲形定規に似た不規則な形をしており、
下からでは分からなかったが、
小ぶりな赤い模様がひと所に弧を描いて並んでいた。
むせかえるような匂いに、目がくらみそうだった。
そのとき、夜が一瞬で明けたかのように、あたり一面が明るくなり、
非常に巨大な何かが近くに降りてきた。
未曾有の恐怖に身を固くしていると、それはまもなく去ってゆき、
またもとのうす暗い世界に戻った。
だが、すぐに、何か違う種類の匂いがたちこめてくるのに気づいた。
揮発性の強烈な匂いだった。
頭の芯がぐらぐらして、思わず手を離した。
あとほんの少しで届くところだった黒い影が
夢のように遠ざかって行った。
そして意識が遠のいた。
翌日、少年はまた標本箱を開けてみた。
クロアゲハの標本の下で、
ごく小さな甲虫が足を縮めて死んでいた。
昨日入れたナフタリンの匂いが鼻をついた。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:小松洋支
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