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コピーライターの裏ポケット
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2012年11月04日
榎本聖之 2012年11月4日放送
高円寺シンデレラ
榎本聖之
思い出横町でしこたまハイボールを飲み、
もうタクシー代さえ持っていなかった。
中野坂上のアパートを目指して、
僕はひとり青梅街道を歩いていた。
時間はたぶん午前三時くらいだったと思う。
その女の子に声をかけられたのは、
ちょうど西新宿のジョナサンを通り過ぎようとした時だった。
「スニーカー知らない?ワタシの」
ガードレールに寄りかかりながら、
その子は何のためらいもなくそう訊ねてきた。
僕は黙ったまま、彼女の足下に目を向けた。
右足には緑色のニューバランス、
左足にはくるぶし丈の黄色いソックス。
「どこかで落としたみたいなの、左だけ」
無防備なつま先をモジモジさせながら、彼女はそうつぶやいた。
表情を見るかぎり、酒に酔っているようではなさそうだった。
「どこから来たの?」と聞くと、
彼女はちょっと困ったような表情を浮かべたあと、
「月から来たの」と教えてくれた。
それは冗談を言っているようにも聞こえたし、
本当のことを言っているようにも聞こえた。
次にどんな言葉をかけたらいいのか分からず、
「素敵な色だね」と僕がスニーカーを褒めると
「両方そろうと、もっと素敵なの。
よかったら一緒に探してもらえないかしら」
と彼女は言った。
「月」の話題にはふれないように気をつけながら
僕はその子と中野坂上方面へと歩きはじめた。
いろんな疑問を頭の中で何度もリフレインさせながら
しばらく歩いていると、
20メートルほど先にあるローソンの自動ドアの前に
スニーカーらしきものが落ちているのが見えた。
「あっ」
僕と女の子の声が、みごとにユニゾンした。
早足で近づき、確かめる。
間違いない、彼女の左足にあるべきニューバランスだ。
ちょっと興奮しながら彼女がすぐに足を通す。
「すごい。ぴったり。シンデレラみたい」とはしゃいでいる。
そりゃぴったりだろうよ、キミのなんだから。
と言いたい気持ちをぐっとこらえて
「よかったね」と僕は彼女の背中に声をかけた。
「じゃ、ワタシ帰るね」つま先で地球を蹴りながらそう言うと、
女の子は左手を上げ、青梅街道を走るタクシーを止めた。
「月に帰るのかい?」と僕が聞くと、
「まさか。高円寺よ、高円寺」と彼女は笑った。
走り出したタクシーのウィンドウを開け、
彼女は何か言っていたが、うまく聞き取ることはできなかった。
「さて」と気をとりなおし、僕は再びアパートを目指した。
もう、歩道のアスファルトを注意深く見つめる必要はない。
僕はゆっくりと夜空を見上げた。
でもそこに月はなかった。
電球が切れかかった街灯に
小さな虫たちが群がっているだけだった。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
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