コピーライターの裏ポケット

こちらのブログは
「コピーライターの左ポケット」の
原稿と音声のアーカイブです




2015年03月15日

小松洋支 2015年3月15日放送

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さよなら
           
      小松洋支

どうしてなのかな。
わたしの前で「さよなら」を言う人たちがいる。
わたしに言うんじゃなくてね。
わたしのそばまで来て、しばらく黙ってて、
それから「さよなら」って言うの。
たいてい夜で。
月が出てたりして。

もちろん わたしにはなにもできない。
なるべく静かにして、
ただ そっと見てる。

もう長いこと そんなこんなを見てきたので、
人生の半分は「さよなら」で できてるんだな、って分かる。

仕方ないよね。

だから我慢しないで、思う存分
泣いたり、怒ったり、叫んだりすればいい。
そうしたら、あしたまた
あたらしい「こんにちは」に会えるかも知れないじゃない。
だって人生のもう半分は
「こんにちは」で できてるんだから。


きょうは、朝からよく晴れてた。
わたしは元気よくお日さまに「こんにちは」を言った。
肌をなでていく風が気持ちよかった。

お昼すぎに ふたりがあらわれた。
ずっとわたしのそばから離れなかった。
夕日が沈む少し前に、
ひとりが「さよなら」を言った。

わたしに言った。

わたしはちょっとびっくりした。
わたしに「さよなら」を言う人なんて
これまで会ったことなかったから。

4歳くらいの女の子だった。
お母さんといっしょだった。
手にジャムの空き瓶を持ってた。

瓶に入ってたのは、
貝殻。小石。コイン。スーパーボール。
角が丸くなった色ガラスのかけら。
そして、
女の子のある晴れた日の午後の時間。

「バイバーイ」
大きな声で女の子は言った。
「海、バイバーイ。
また来るからねー」

「さよならー。
ありがとう。
また来てねー。
待ってるからねー」
わたしは答えた。

女の子には、ただ波の音が聞こえただけだったかも知れないけど、
そのときの波の音は、
いつもよりも大きく、夕焼け空にこだましたと思うんだ。


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2015年03月08日

岡田真平 2015年3月8日放送

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法事とすき焼き

     岡田真平

その週末は、ばあちゃんの十三回忌で、
僕たちは東京から実家のある滋賀県に帰っていた。

法事の仕上げには、きまって家族ですき焼き鍋を囲む。
ばあちゃんの一番の好物だったから、仏壇の前でみんなで肉を焼く。
もちろん最初は親戚たちから非常識だと怒られていた。
でも喪主である、じいちゃんは曲げなかった。

四十九日の納骨前の白い骨壷の前に供えられた、カネフク精肉店の緑の紙包み。
骨だけになったばあちゃんは、
近江牛のロース肉2キログラムと向き合い何を思ったのか。

じいちゃんは一緒に食べている気になっても、
もう食べられないばあちゃんにとっては、
それこそ、うらめしや、だろう。

包装紙にプリントされた精肉協会のマスコットキャラクター、
近江牛の牛ベヱくんは、そんな事情とは関係なく、
ぺろりと舌を出した笑顔で、包装紙の片隅にたたずんでいた。

一周忌ですき焼きが出されたときには、
親戚の中には、去年のことを思い出して、まだ顔をしかめる親族もいたが、
三回忌のときにはすっかり当たり前の行事になっていた。

よく焼けたすき焼き鍋に、まずは牛脂のブロックを乗せる。
ジューという音とともに、牛肉の甘い脂の焼ける匂いが立ちのぼる。
鍋に満遍なく油がなじんだら、
サシの入ったロース肉を破れないように慎重に広げる。
さっと焼いたところで、砂糖を振って、醤油をたらして、裏返す。
いい焼き色がついたところで、鍋から上げ、溶き卵をくぐらせる。
じいちゃんが焼いてくれた肉を、家族がひとり一枚ずつ食べる。
そこから九条ねぎ、糸こんにゃく、焼き豆腐が入り、鍋になっていく。
いわゆる関西風のすき焼きだ。

ばあちゃんが人を呼んでいるのか、すき焼きが人を呼ぶのか、
七回忌のときには、よくわからなくなってきていた。
名古屋の隆弘おじさんは、法事には間に合わずすき焼きを食べて、
仏壇の前に座ることなくまた名古屋に帰っていった。

十三回忌の今年は、五歳になる息子もその輪に加わった。
卒寿を迎えたじいちゃんは、食べる量こそ減ったものの、
今年肉を焼き続けている。

近江牛の牛ベヱくんは、去年、
滋賀県のゆるキャラグランプリで念願の優勝を果たし、
食べられる牛の代表として、
ぺろりと舌を出して微笑み続けている。


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2015年02月15日

小松洋支 2015年2月15日放送

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手紙

         小松洋支

ちゃんと顔を見て話そうかなとも思ったのですが、
そうするとついつい冗談めかしてしまうので、
こうして手紙を書いています。

思い出すことはたくさんあるのに、
楽しいことより、悲しいこと、悔やまれることの方が先に立つのは
なぜなんでしょうね。

わたしが5歳の頃です。
コアラみたいに腕に抱きつく人形がとても流行しました。
浮き袋と同じで、息を吹いてふくらませるビニール製の人形です。

わたし、それが欲しかった。
友だちがみんな持っていたから。
でも、買ってもらえなかった。
なぜだか理由は分かりません。
脱サラしたお父さんの仕事が軌道に乗っていなくて、
僅かなお金も倹約しなければならなかったのでしょうか。
いまとなっては分かりません。

代わりにお母さんはぬいぐるみを作ってくれました。
みんなが持っている人形とそっくりの、
腕に抱きつくぬいぐるみ。
針金で型をつくって、綿(わた)をまとわせ、
洋裁で残った布地を縫い合わせ、眉と口を刺繍して、
目はガラスの丸いボタン。

お隣のおばさんが回覧板を届けに来て
驚きの声をあげたのを覚えています。
「まあ、なんて上手にできてるのかしら!」

でも、わたし、そのぬいぐるみが気に入らなかった。
だから、それを腕につけて外に遊びに行かなかった。
みんなと同じビニールの人形じゃないのが、恥ずかしかったんです。

何時間もかけて、わたしのために作ったぬいぐるみ。
なのにお母さんは、決してわたしを咎めたりしませんでした。

おもちゃ箱に置き去りにされたぬいぐるみを
立ったままちょっとさびしそうな顔で眺めているお母さんの姿を、
わたし、廊下から覗いたことがある。

そのぬいぐるみがどんなだったか、いまでもはっきり思い出せます。
丸みをおびた曲線があたたかい、
誰かと本当に腕を組んでいるように肌になつかしく触れてくる、
大人になったいまのわたしからすれば、
ビニールを張り合わせた人形なんかより、
ずっとずっと上等な、
世の中にひとつしかないぬいぐるみでした。

ごめんなさい。

安っぽいものと価値あるものの見分けがつかないこどもだったこと、
ごめんなさい。
けれども、そんなことの見分けがつかないのも、
こどもがこどもという時間を生きている証拠。
お母さんはそんなふうに受け止めてくれていたんだろうな。
そう思います。

ありがとう。


この夏、わたしも、お母さんになります。


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2015年01月18日

小松洋支 2015年1月18日放送

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山羊さん郵便
               小松洋支

白山羊さんは黒山羊さんに手紙を書いた。

「この前、遊びに来たとき
あなたは私がだいじにしていた手すきの和紙を
こっそり持って帰ったでしょう。
あれは細川紙という紙で、最近世界遺産に登録されたのです。
どうかすぐに返してください」

書いた手紙を読み返しているうちに、
白山羊さんは思わずそれを食べてしまった。

「あ」、と思ったが、もう遅かった。
左手に「どうかすぐに返してください」と書かれた
便箋の切れ端が残っているだけだった。

白山羊さんは考えた。
何を返してもらうのだったっけ?
思い出せないので、黒山羊さんに手紙を書いた。

「どうか返してください。
だいじなものなんですから。
この前うちから持って行ったでしょ、
ほらあれですよ、あれ」

今度は食べないように目をつぶって急いで封筒に入れ、
コンビニの前のポストに入れた。

黒山羊さんは手紙を受け取った。
読もうとしたが、気づくと食べてしまっていた。

「あ」、と思ったが、もう遅かった。
左手に「ほらあれですよ、あれ」と書かれた
便箋の切れ端が残っているだけだった。

黒山羊さんは考えた。
白山羊さんが言う「あれ」って何だろう?
思いつかないので、白山羊さんに手紙を書こうとした。

だが、待てよ。
手紙は食べてしまうに違いない。
で、eメールにした。

「TO 白山羊様
ちょっとおたずねします。
あれ、というのはどれのことですか?」

が、それは文字化けしていて
メソポタミアの粘土板みたいだった。

白山羊さんはすぐに返信した。

「TO 黒山羊様
あいにくメールの具合が悪くて読めませんでした」

が、それは文字化けしていて
エジプトのロゼッタストーンみたいだった。

黒山羊さんは仕方なく手紙を書くことにした。
電話すればすむことなのに、
悲しいかなウシ科の動物は考えがそれに及ばない。
食べてしまわないように息を止めて書いた。

白山羊さんは手紙を受け取った。
封筒を開けると、手すきの和紙に
のたくったような字でこう書いてあった。
「さっきの手紙のご用事なーに?」


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2014年12月14日

細田佳宏2014年12月14日

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ごめん

       細田佳宏

ごめん。
夜中に電話でこんなこと言うのもなんだけど。ほんとごめん。
別にてっちゃんのこと嫌いになったわけじゃない。

うん。違う、他に好きな人できたわけじゃない。

うん。違う。貯金は関係ない。
そりゃせめてアルバイトぐらいして欲しかったけどそこじゃない。

うん。違う。バンド活動も関係ない。
というか違うもなにもてっちゃんそもそもバンド組んでないしね。
言わない。カラオケで人のお金で人の歌を歌うのはバンド活動とは言わない。
ヤフー知恵袋で聞いても言わない。

うん、違う。私のクリア寸前のドラクエのデータを勝手に消したのも違う。
違う、というか今初めて知ったしね。ずっとセーブミスかと思ってた。
え?なんでそういうことするの?私、三日ほど会社休んだよね。あの時。
自分を責めたよね。途方にくれたよね。大澤誉志幸ばりに。
言わない。だからそういうのはサプライズって言わない。
言わないよ。だから教えてgooで聞いても言わないよ。
そりゃビックリはしたよ。
相棒の最終回の録画見る前に消去された時以来のビッグサプライズだよ。
残り120時間ぐらいまだハードディスクあったよね。なんで消すの。

ごめん。怒ることじゃないよね、たかが相棒で。ごめん。

うん。違う。デート中に霊柩車を見たら親指を隠すからでもない。
違う。誕生日プレゼントが甘納豆だったからでもない。
違う。前世がビフィズス菌だったからでもない。

というかこれクイズじゃないし。別れ話だし。
しらみつぶしに当てようとしないで。流れで私から言いにくそうに言うから。
しない。三択にはしない。だからクイズじゃないし。
オーディエンスもテレホンもない。今、テレホンはしてるけど。

思ってない。うまいこと言ったとか思ってないし。
そんなにうまくないし。
ないよ。賞金とか。むしろなんであると思うの?おかしくない?
怒ってない。怒ってないけどおかしくない?


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2014年11月16日

小松洋支 2014年11月16日放送

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トーラ
小松洋支

小さな駅の閑散とした改札口を出ると、いきなり潮の匂いがしました。
海がもう、すぐそこなのです。

駅前から道はだらだらと下り坂になっていて、
道の両側にはマッチ箱のような店がぽつぽつ並び、
置物のような老人たちが、
たばこや袋菓子、時計バンドといった珍しくもないものを売っています。

店番がいない豆腐屋の
豆腐とこんにゃくが泳がせてある背の低い水槽の水を
耳の垂れた野良犬が飲んでいます。

とても地味なブラウスやとても派手なアロハが、
くすんだ用品店の店先にぶら下がっています。

はじめて来たこんな田舎町が、
なんだか切ないような気持とともに、
もしかしたら自分の故郷(ふるさと)ではないかと思えてくるのが
いつもながら不思議でなりません。

めざす神社は海に突き出た岩場の上にあるはずです。

坂をおりきると、潮の匂いが急に強くなって、
粘り気のある湿っぽい風が髪を後ろに吹き飛ばしました。

こじんまりした港が見えます。
しかも人だらけ!

この町にこんなに人がいたのだろうか、
と思うほどの人数が突堤に集まっています。

「トーラが来るぞお」
誰かが大声で叫びました。
「トーラだ。トーラだ」
次々に声が上がります。

「トーラ」?
人波の頭ごしに沖の方を見て、立ちすくみました。

ぬめるような光を帯びた巨大ななにか、
巨大なうえに、おそらくは非常に長いなにかが、
藍色の背中を海面に見せて、港に向かって来るのです。

うねりながら近づく恐ろしげなものに目を凝らしていると、
「このおなごさ行ってもらったらよかべ」
そんな声が背後でして、肩をつかまれました。
人びとがいっせいにこちらを向きます。
大勢の手がわたしの体を前へ、前へ、
海のほうへと押し出していきます。

左手に岩場があり、神社が見えました。
幟が風に煽られています。
「十浦(とうら)神社」という文字が見えました。
十の浦と書いて「十浦」。

そのとき思い出したのです。ネットの記事にあった古い言い伝えを。

一光上人(いっこうしょうにん)が海の大蛇(おろち)を鎮め
「十浦神社」を建てたが、
三百年を経て法力(ほうりき)が解け、
大蛇は再び海辺の民を苦しめるようになった。
あるとき村の乙女が自らを生贄として差し出したところ
大蛇は乙女とともに沖へ戻って行ったという。

波のしぶきが顔にかかります。
ボートに乗っていた少女が桟橋に上がりながら、
悲しそうにわたしを見ました。


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2014年10月26日

小松洋支 2014年10月26日放送

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脱出
               小松洋支

天井で赤いランプが点滅し、サイレンがけたたましく鳴っている。
先ほどの衝撃が、なにかトラブルを引き起こしたに違いない。

コクピットの後ろのドアがひらき、
いつもの滑るような動作で、ロザリンドが入ってきた。

「1分02秒前、小型の天体が左舷をかすめました。
防御センサーにより衝突は回避しましたが、
天体に角(つの)のような突起が出ていたらしく、
それが推進機にぶつかった模様です」

ロザリンドの電子音声は、いつも通り冷静だ。

「推進機能が損なわれたため、退避が必要です。
エマージェンシーカプセルを切り離しますので、至急移動をお願いします」

わたしはロザリンドをじっと見た。
もう型番が古くなったボディは、表面に細かい傷がたくさんついている。
転倒防止装置がまだ外付けになっている時代の、
アーデン社製造のものだ。

わたしたちの任務は、希少ガスのアルゴンを探すことだった。
数えきれないくらいの銀河をめぐった。
母船が探査ポイントに着くと、
わたしたちのようなリトルシップがいくつも飛び出して、
周囲に散らばる星の大気を収集してまわり、母船に届ける。
そんな旅を30年も続けた。

「ロザリンド、お前とはずっといっしょだったな。
危険な目にもずいぶんあったが、
いつもお前の的確な判断で救われた。
お前がいなければ、いまわたしは、ここにはいない」

サイレンが鳴り続けている。

「そんなわたしも、もう70を越えた。
心臓に重い持病がある。
母船に帰ってもそう長くはもたないだろう。
だが、お前は違う。
メンテナンスすれば、まだまだ働ける。
カプセルの収容人数は1名。
乗るのはお前のほうだ」

ロザリンドは、わたしの話を
まるで聞いていなかったかのような応答をする。

「推進力が失われたので、質量の大きな星 Z 13(ゼータイチサン)の重力が
本機を引き寄せ始めています。
エマージェンシーカプセルへの移動をお願いします」

機体が大きく前へ傾く。

「もう一度言う。カプセルにはお前が乗れ。
これは命令だ」

ロザリンドはフリーズしたかのようにしばらく動かなかったが、
やがて向きを変え、のろのろと進み始めた。
わたしは、その後ろ姿を見送っていた。

ドアの前で、ロザリンドはふりむいた。
同時に、金切り声のような音が、サイレンをかき消すほど高くコクピットにこだました。
透明な強化樹脂で覆われたロザリンドの頭に、
非常ランプの赤がちらちらと反射していた。


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2014年09月21日

小松洋支 2014年9月21日放送

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ナフタリン
         
        小松洋支

あたりはうす暗かった。
銀色の細い柱が等間隔で何本も立っていた。
遠くのほうの柱は、ぼうっと白く、
月の光に照らされているように見えた。

柱の表面はなめらかで、触れるとひんやりと冷たかった。
足がかりになるような凹凸(おうとつ)はどこにもなく、
登るにはかなりの困難が予想された。

柱の上の方から、かぐわしい匂いが漂っていた。
空腹を誘うような、なんともいえず甘美な匂いだった。
見上げると、柱の尽きるあたりを黒い影が覆っていた。

柱から柱へとめぐって分かったことだが、
どの柱の上にもそれぞれ黒い影が覆いかぶさっていて、
ちょうど大きなパラソルが並んで立っているような具合だった。

影の形は柱によって微妙に異なり、
それぞれに固有な模様があるようにも思われた。

とある柱の上からは、ことによい匂いが降りしきっていたので、
その魅力に抗うことができず、柱を登る決心をした。

最初は自分の背丈くらいまで登るのが精いっぱいだった。
登っては滑り落ち、登っては滑り落ち、
時には仰向けに倒れて、しばらく起き上がれないこともあった。

けれども匂いの吸引力が本能に働きかけ、
何十回も失敗を繰り返したのち、
気がつくとなんとか柱の上の方までよじ登っていた。

目の前に、影の実物があった。
それは光沢のある黒い絨毯のようだった。
雲形定規に似た不規則な形をしており、
下からでは分からなかったが、
小ぶりな赤い模様がひと所に弧を描いて並んでいた。
むせかえるような匂いに、目がくらみそうだった。

そのとき、夜が一瞬で明けたかのように、あたり一面が明るくなり、
非常に巨大な何かが近くに降りてきた。
未曾有の恐怖に身を固くしていると、それはまもなく去ってゆき、
またもとのうす暗い世界に戻った。

だが、すぐに、何か違う種類の匂いがたちこめてくるのに気づいた。
揮発性の強烈な匂いだった。
頭の芯がぐらぐらして、思わず手を離した。
あとほんの少しで届くところだった黒い影が
夢のように遠ざかって行った。
そして意識が遠のいた。

翌日、少年はまた標本箱を開けてみた。
クロアゲハの標本の下で、
ごく小さな甲虫が足を縮めて死んでいた。
昨日入れたナフタリンの匂いが鼻をついた。


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2014年08月17日

小松洋支 2014年8月17日放送

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イワンの馬鹿
            
           小松洋支

「イワンの馬鹿!」
大声で叫んで、エカテリーナは持っていた手提げで
イワンをぶとうとした。
が、イワンがとっさに身をかわしたので、
手提げは空を切ってエカテリーナのひざに当たり、
鉛筆やノートが転がり出た。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿!」
エカテリーナは手提げを投げ捨て、
両手のこぶしを振り回しながら突進してきた。

イワンは身を翻して駆け出し、
レンガ作りの郵便局の角を曲がって人ごみに紛れこんだ。

もとはと言えばイワンが悪いのだ。
エカテリーナと渡り鳥の集まる池を見に行く約束をしていたのに、
それをすっぽかしてユーリーと蚤の市に出かけたのだから。


センナヤ広場はいつものようにごったがえしていた。
道端に腰をおろして、特になにをするでもなく、
ただ通る人を眺めている男たち。
釣ってきた魚や、摘んできた野の花を売ろうとして
人びとの間をさまよい歩いている子どもたち。
まだ暗くならないうちから、
客を待ってたたずんでいる派手な化粧の女たち。

そんな女たちの中に、
エカテリーナの母親もいることをイワンは知っていた。
だからエカテリーナは決してセンナヤ広場には近づかない。
そしてイワン以外に、
エカテリーナの相手をしようとする者はいない。

イワンは広場を横切り、古びた居酒屋の前で立ち止まった。
店先にいつもすわっている黒い犬がさかんにしっぽをふった。
屋外のテーブルで、学生らしい若い男と
風采の上がらない赤ら顔の中年男がウオッカを飲んでいた。

と、突然、人ごみの中に知っている顔が見えた。
イワンの父親だった。
一年の大半を地方に行商に出ていて、
家にいることはほとんどない。
ペテルブルグにいること自体が驚きだった。

父親はたばこを吸いながら、
妙に落ち着かない様子であたりを見回していた。
女が一人近づいてきた。
エカテリーナの母親だった。
二人はなにか話しあっていたが、
やがて腕を組んで細い路地に消えていった。

イワンは走って運河沿いの道に出た。
くちびるを噛みしめていたので、血の味がした。
橋から見下ろすと、カイツブリが二羽、静かに水を搔いていた。

イワンはポケットから鉛でできた十字架のペンダントを取り出した。
蚤の市でエカテリーナのために買ってきたものだ。
それを運河に投げ捨てようとして、思い切り腕を振りあげた。
が、力なく、だらんとまた腕を下ろした。

暮れてゆく運河に向かって、イワンは吐き捨てるように言った。
「イワンの馬鹿」


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2014年06月15日

小松洋支 2014年6月15日放送

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明けがたの夢
            
         小松洋支

心理学のゼミに出ている。
なぜか教室ではなく、地下鉄の駅だ。
ハツカネズミの学習能力を調べる実験について、教授が説明している。
線路の脇に立ち、背伸びをして、ホームの端(はじ)を机代わりに
ノートをとろうとしている。
電車が来たら危ないなと思う。
しかもボールペンのインクが出ない。
ぐるぐる螺旋を書き続けても、紙をひっかくばかり。
と、不意に黒い液体が飛んできて、ノートの上にボタリと落ちる。
これをペン先につければ書けるかもしれない。
見ると教授の足もとにタコがいる。
きっと、あれがスミを吐いたのだ。

という夢から覚めた。
確かに木曜は心理学のゼミがある。
教室に着いて、ノートを開く。
パリパリと音がする。
ページの両側に黒い丸。
スミでページがくっついていた跡だ。


むこうからピンクの色鉛筆が転がってくる。
長さ7メートル、直径が50センチくらいある。
猛烈なスピードだ。
これを飛び越す。
続けて黄色の色鉛筆が転がってくる。
飛び越す。
次は空色。
その次は紫。
そのまた次は肌色。
前方を見ると、何十色もの色鉛筆が、丘の上から転がってくる。
それを、何十人もの人間が、ハードルのように飛び越している。
ははあ、これは夢だな。
明けがた近くなると、いつもはっきりした夢を見るのだ。
そんなことを考えていたので、
目の前に迫っていたこげ茶の色鉛筆に気づかず、
はね飛ばされて、どこかの縁の下に転げこむ。
板の隙間から、縁側を歩く人の足の裏が見える。

という夢から覚めた。
金曜は必修の外国語がある。
着替えようとしてパジャマを脱ぐと、
右の脛が内出血している。
色鉛筆にぶつけたのと同じところだ。


ゾンビたちに行く手を塞がれている。
後ろは断崖絶壁だ。
ケータイで助けを呼ぼうとするのだが、
テンキーが顔文字になっていて発信できない。
なにか武器になるものはないか。
足元の棒きれを拾うと、うまい棒になっている。
石を拾うと、ガチャガチャのカプセルになっている。
ははあ、これは夢だな。
だが待てよ。
このまま目が覚めると、まずいことになるかもしれない。
平和な夢で上書きしないと、危ないかもしれない。
そう考えている間にも、ゾンビたちは斧を振り上げ、
じりっじりっとこちらに近づいてくる。
背後で、波が岩に砕け散る音がする。


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