コピーライターの裏ポケット

こちらのブログは
「コピーライターの左ポケット」の
原稿と音声のアーカイブです




2013年01月27日

上田浩和 2013年1月27日放送

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電車

            上田浩和

がたんがたんがたんがたん。
電車は駅を出てからずっと電車語で独り言をつぶやいていた。
うるさいと注意したけど、
電車は電車語でしゃべりつづけた。

電車はトレイン。
トレインは、レインを含んでいる。
だから電車には雨がつきもの。
窓の外が突然暗くなったかと思うと、
ざあざあざあざあざあ、
無数の雨たちがいっせいに雨語で話しはじめた。
うるさいと注意したけど、
雨たちは雨語でしゃべりつづけた。

ぼくは本を開いた。
本はブック。
ブックは、ブッからはじまる。
だから本を読むときはおならが止まらない。
ぶっぶっぶっぶっぶっ。
おならがおなら語で話しはじめた。
うるさいうえにくさい。
だから、うるさいうえにくさいと注意したけど、
おならはおなら語でしゃべりつづけた。

電車と雨とおならはずっとしゃべりつづけた。
電車語も雨語もおなら語も聞きとれないぼくには、
ただただうるさいだけだから何度も何度も注意した。
黙れうるさい静かにしろシャラップ。

電車が次の駅でとまった。
そしてまた走りはじめたとき、
車内は静まり返っていた。
電車はたしかに走っているのに、
雨はたしかに降っているのに、
おならはたしかにくさいのに、
誰の話し声もまったくしない。
どうやら電車と雨とおならの声たちは、
さっきの駅で降りたようだ。

電車はなんの音もしない世界のなかを走っていた。
ようやく手に入れた静けさのなかでぼくは再び本を開いた。
数ページ読みすすんだところで、
今度は、静寂が静寂語で話しはじめた。
しーんしーんしーんしーん。
冬のセミみたいにずっと話しつづけた。
うるさいと何度注意しても、
次の駅についても、
静寂の声が降りた気配はなかった。
静寂は静寂語でずっとしゃべりつづけた。


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2012年12月30日

上田浩和 2012年12月30日放送

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キャベツ!

            上田浩和

クリスマスプレゼントに
キャベツをあげたのがいけなかったみたいだ。
彼女がとても怒っている。
にんじんをツノにして鬼の形相だ。
キャベツは煮ても焼いても
そのままでもおいしいから喜んでくれると思ったのに、
反対に怒らせてしまった。
プレゼントにキャベツだなんて!と。
キャベツは指輪みたいに私を輝かせないし、
ドレスみたいに私を奇麗にもしてくれないじゃない!と。
ツノにしたにんじんをぽりぽりかじながら怒鳴るものだから、
オレンジの破片があたりに飛び散ってとても汚かった。
でも、彼女はまちがってると思う。
キャベツを指にはめようとするほうがおかしいし、
キャベツを着ようとするほうがどうかしてる。

ぼくはいま、
ホテルのベッドのうえでキャベツを抱いてひとり。
無理してホテルを予約したのは、
こうやって孤独を味わうためなんかじゃないのに。
仕方がないから、
キャベツにかけられていたリボンをほどくと、
一枚ずつ葉っぱをはいでいった。
いちまい。
にいまい。
さんまい。
よんまい。
ごおまい。
はいではぱりぱり、はいではぱりぱり音をたてながら食べていく。
こんなにおいしいのに。
食物繊維もたっぷりなのに。
なのになんで彼女は怒るのかな。
信じられないよ、ぼく。
怒るでしかし。ほんま怒るでしかし。
今度はぼくがにんじんをツノにするでしかし。

そんな怒りを洗い流すために、
ぼくはシャワーを浴びた。
浴室を出たあと彼女のセリフを思い出し、
ほんとうにキャベツはドレスにならないのか知りたくなり、
キャベツの葉を一枚ずつ裸の身体に貼っていった。
そして鏡の前に立った。
そして思った。
ドレスのように見えないこともないじゃないか。
それからフロントに電話して、
まな板と包丁を持ってきてもらうと今度はキャベツを千切りにした。
その束を輪にするとそこに自分の左手の薬指をとおした。
そして思った。
指輪に見えないこともないじゃないか。
キャベツのドレスを着て、キャベツの指輪をしてみて、
ぼくはようやく分かった。
キャベツは、
煮ても焼いてもそのままでもおいしいだけではなく、
着ても指輪にしてもおいしいということが。


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2012年11月25日

上田浩和 2012年11月25日放送

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ホテルラベンダー

          上田浩和

「こちら警察の落とし物係なんですが」
電話の声は女だった。
「あなたのドウテイが届いています」
女は若干言いにくそうにそう言った。
「ドウテイというのは、つまりそのいわゆる童貞ですか?」
「そうです。いわゆるチェリーボーイの童貞です」
ぼくが童貞を捨てたのは、たしか5年前の秋の日の夜。
冷え込んだのだろう、たくさん服を脱いだ覚えがある。
はじめてできた彼女のおかげで、その晩、
某所にあるホテルでめでたく捨てることができたのだった。
「どこに落ちてたんですか?」
「ホテルラベンダーです」
間違いない。そのホテルは、たしかそういう名だった。
「でも、もう5年も前に捨てたものですよ」
「ホテル側が久しぶりに大掛かりな掃除をしたところ、
207号室のベッドの下からあなたの童貞が見つかったそうです」
「なんでぼくのだと分かるんですか?」
「名前と住所がしっかりと書いてありますよ。電話番号まで」
そんなものにそんなものを書いた覚えなどまるでなかった。
「取りに行ったら、またぼく童貞になるんですよね?」
「そうなるんだと思います」
大事にしまっておいたわけではないが、
結果的に20年以上の長い付き合いになってしまったぼくと童貞。
捨てたときは、5キロばかり体重が減ったような気がしたし、
これで友達といても肩身の狭い思いをしないで済むと安心もした。
成人式よりも大人になった実感があった。
捨てて得るものがあるのが童貞だ。
でも、正直、もうすっかり童貞のことなんて忘れていた。
それを今さら拾ったから返すと言われても、
どう扱えばいいかなんて分からないし、
もう一度童貞に戻りましたなんて誰にも言えない。
「こういうことはよくあるんですか?」
「こういうことというのは、童貞が届けられることですか?」
「ええ」
「たまにありますよ」
「みんな取りに来るんですか?」
「いやあ、めったにいらっしゃらないですね」
「えっと、じゃあ、その拾われた童貞はどうなるんですか?」
「一定期間保管したあとで焼却処分されます」
「じゃあ、ぼくのもそれでお願いします」と言うと、
女は小さくため息をつき、事務的な挨拶を残して電話を切った。
申し訳ないことしたな、とぼくは思った。
そして警察の落とし物係の保管箱にいれられた
自分の童貞の冥福を祈った。


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2012年10月28日

上田浩和 2012年10月28日放送

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ハイヒール

          上田浩和

とある店で見つけたその黒いハイヒールが、
どうしても欲しかったわたしは、
その月の労働をすべてそのために捧げた。
そして給料日、仕事帰りに店に寄ったはいいが、
ハイヒールはもうそこにはなかった。
でも、売れたわけではなかった。
腸が飛び出したんだ、と店長は言った。
ちょう?と、聞き返したわたしの目も飛び出しそうだった。
店長が店の奥から持ってきたハイヒールは、
たしかにあのハイヒールではあったが、
両方のヒールが付け根から折れ、そこから、
ピンク色のやわらかい内蔵がぐっちゃり飛び出していて、
見ていると気分が悪くなった。
前日にやってきた豊満な女性客が
無理矢理試着したせいだという。
死の間際にあるハイヒールを店長がとめるのも構わずに
買い求め家に帰ると、さっそく手術にとりかかった。
指先で飛び出した内蔵をなかに押し込み、
瞬間接着剤でヒールを固定するという
10時間にも及ぶ大手術のあと、
こびりついた血を丹念にふきとってやると、
ハイヒールは元通りの美しさを取り戻した。

わたしは、ふつうのOLで医者じゃない。
つまり、無免許であんな大手術を行ったということで、
それはよくない。漫画じゃあるまいし。
で、わたしは、それから数日間、罪の意識に苛まされ続けた。
で、こんな苦しい状態はもう嫌だと思い、
で、警察に出頭する決意を固めた。
で、捕まって、で、裁判になって、で、15年服役して、
で、出所した日、家でわたしを迎えてくれたのは、
黒いハイヒールだけだった。

その晩、15年ぶりにハイヒールをはいた。
ハイヒールの美しさは変わらずだったが、
わたしのほうが、もうハイヒールに似合わなくなっていた。
両方のかかとに全体重をかけて立っても、
ヒールはびくともしない。
長い刑務所暮らしのせいで、わたしの身体はやせすぎていた。
ハイヒールをはいたまま家を飛び出し、
わたしは夜の街を全速力で駆けた。
ヒールが折れたのが分かった。でもかまわなかった。
踵に柔らかいものを踏んだ感触があったけどかまわなかった。
血が足跡になって残ったけどかまわなかった。
なにかにつまずいて転ぶまで走った。
豪快な転倒だった。視界がぐるっと高速回転した直後、
衝撃が全身を包んだ。
仰向けになり、月を見上げ、
息を切らしながら、お腹の周りを触った。
わたしは医者ではないから正確なことは言えないけれど、
脱腸はしていなかった。


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2012年09月30日

上田浩和 2012年9月30日放送

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読書感想文

            上田浩和

そのうさぎをはじめて見たときは、
頭の中が疑問符でいっぱいになった。
なんでこのうさぎは、八頭身なんだろう?
なんで筋肉質なんだろう?
なんでずっと腹筋ばかりしているんだろう?
なんで黒いスパッツをはいているんだろう?
いつの間にぼくの部屋に入ってきたんだろう?
どうやって入ってきたんだろう?
などなどいろいろと謎の多いうさぎではあったが、
そんなことは気にも留めず、ぼくはそのうさぎの隣で、
今年の夏、ずっとジュール・ヴェルヌの「十五少年漂流記」を読んでいた。
読書感想文の宿題が出ていたのだ。
残念ながら十五少年漂流記は、
十五才の少年が盗んだバイクで夜の街を駆け回る話ではなかった。
ぼくは不良に憧れる十五才だけど、
万引きもカツアゲも実際にはできない臆病者だから、
それっぽい不良小説を読んで、
そのなかに登場する不良たちにいろんな不良的行いを
代行してもらうために読みはじめたのに、
この小説のなかには十五人も少年が出てくるにもかかわらず、
バイクを盗むようなことは誰もしなかった。
うさぎは、朝起きてから寝る直前までずっと腹筋をしていた。
うさぎの腹筋はみるみるうちに割れていった。
通常、腹筋は割れても六つだが、このうさぎの場合は違った。
八つに割れ、十二に割れ、二十四に割れ、
そのうち腹筋の領域を越えて脇腹まで割れはじめた。
そして、ぼくが十五少年漂流記を読み終わる頃には、
うさぎの腹筋は、縦に二十、横に二十、計四百に割れていた。
まるでお腹に四百字詰めの原稿用紙が一枚張り付いているように見えた。
「おまえいい原稿用紙もってんじゃん」
ぼくは不良ぽく言ってみた。
「読書感想文書かせろよ」

本質をついたなかなかいい読書感想文が書けたと思ったけど、
読んだうさぎの反応は違った。
両耳を不満げに垂らして、この作文つまらないアピールをしてきた。
「なんだよ文句あんのかよ。金だせよ」
かっとなったぼくに対してうさぎは首を何度もふった。
「じゃあそこでジャンプしてみろ」
ポケットに小銭を隠してないかを確認するために、
そう言って脅すのは不良の常套手段なのだが、それがいけなかった。
うさぎはぴょんぴょんはねると、窓から飛び出して、
そのまま月に帰ってしまったのだ。大きなジャンプだった。
月を見上げながら思った。
うさぎが納得いく読書感想文って、
いったいどんなものだったんだろう。


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2012年08月26日

上田浩和 2012年8月26日放送

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のぞき窓

            上田浩和

ノックの音がした。
玄関の扉についた丸いのぞき窓をのぞくと、
向こうは真っ暗だった。
それだけでわたしには、
その相手が熊本出身の友だちであることが分かった。

辛子蓮根をご存知だろうか。
蓮根の穴という穴にぎっしり辛子をつめこんだあと、
まるごと揚げた熊本の名産品だ。
醤油をつけてもいいが、そのままでもおいしい。
おかずにもつまみにもなるので、
熊本の食卓には日常的に並んでいる。
そんな辛子蓮根で育った熊本の人は、丸い穴を見ると、
ついつい辛子を詰め込みたくなる衝動にかられるのだという。

わたしも一度熊本を旅したことがあるが、
熊本の人の穴と辛子へのこだわりは徹底していた。
熊本県民の朝は、まず全身に辛子をぬりたくりことからはじまる。
そうやってすべての毛穴と鼻の穴に詰め込むのだ。
外に一歩出ると、
黄色い蓋がされたマンホールが道のいたるところにあり、
その上を、鼻の穴が黄色いおじいさんが、
お尻の穴が黄色い犬を連れて歩いている。
学校では学生たちが、
マークシートの丸い穴を必死に辛子で塗りつぶしている。
夜、バーの片隅では、若者たちが心にあいた穴を
互いに辛子で埋め合いながら、その刺激に涙を流している。
空気にも、熊本は辛子の匂いがまじっている。
酸素の元素記号であるOの穴にまで、
辛子が埋め込まれているせいだ。
もちろんCO2も同じだから、
あまり熊本県民をがっかりさせないほうがいい。
辛子くさいため息をはく。
そんなわけで熊本は、どこに行っても辛子の匂いが立ちこめている。
とくに、8月はその匂いがより強烈になる。
なぜなら、8という数字には、丸い穴がふたつもあいている。

それで、なぜ、声も聞かないうちに扉の向こうにいるのが、
熊本出身の友だちだと分かるのかというと、
丸いのぞき窓の向こうが真っ暗だからだ。
のぞき窓が丸いのを発見して、辛子で埋めたに違いないのだ。
今日は、8月28日。
一年でもっとも丸い穴の多い日に、熊本出身の友だちがやってきた。
悩み多き人だ。話しているうちに、何度もため息をつくだろう。
辛子があまり得意ではないわたしは、覚悟しなくてはならない。
深呼吸をひとつしたあと、
その心に開いた穴を埋められるだけの辛子が、
うちにあったかを思い出しながら、わたしは扉を開けた。


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2012年07月29日

上田浩和 2012年7月29日放送

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グミ

          上田浩和

下の奥歯が虫歯になってからというもの、
グミを噛むのは前歯の役割になっている。
ところがそれだと味がよく分からない。
前歯は「噛む」というより「裂く」に近く、裂くだけでは、
せっかくのジューシーさがグミからにじみ出てくることはない。
7月のある日、歯医者に行こうと心に決めて、ぼくは家を出た。
セミが声の限りに鳴いている。
ついのど飴をあげたくなる。
ノンシュガーのやつにしてあげよう。
虫歯はやはりセミでも痛い。
わずかしかない命の時間を歯医者で並ばせて
無駄にするような真似だけはさせたくない。

歯医者へ行く途中に小学校がある。
ぼくもそこを卒業した。
6年生のときの担任は坂本先生という
すね毛を生やした女の先生で、
いつも大きなメガネのむこうの目をとがらせて、
前にいた学校の生徒たちは素直でよかったとか言うので、
ぼくはその先生のことをあまり好きにはなれなかったのだが、
そんなことを思い出しながら
小学校の塀にそって歩くうちにプールが見える場所に出た。
子供たちが楽しそうに泳いでいる。
頭にかぶっている赤や緑や黄色の色とりどりの水泳帽が、
遠目に見るとグミのようで、
いっとき夏の暑さを忘れさせてくれる。
子供の頃、ぼくは、プールの水面にいくつか浮かべたグミを、
水中にしゃがんで、そこから見上げるのが好きだった。
夏の空に向かって跳ねるカラーボールのようで、
とくにグレープ味の紫色のグミは、
きらきらと宝石みたいに輝いてきれいだった。
そんなグミを、ぼくはトビウオになったつもりでプールの底を蹴り、
ジャンプしながら口で捕食した。
そうやって食べるグミがいちばんおいしい。夏の味がする。

「なにやってるんですか」
いつだったか、水から顔を出しグミを味わっているときに
その声が聞こえた。
声の方を振りむくと、
水に濡れてすねにへばりついたすね毛が見えた。
なんだか悲しそうな顔をした坂本先生がプールサイドにいた。
前の学校の生徒と比べていたのかもしれない。
「グミを食べてます」とぼくは言った。
その夏、ぼくはグミを主食のように食べ続けた。
いま虫歯なのは、その夏のグミのせいかもしれない。
ノンシュガーのグミが発売されたのは、
それからずいぶん経ってからだった。


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2012年06月24日

上田浩和 2012年6月24日放送

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乾燥肌

             上田浩和

いま、ぼくは、タバコの煙がたちこめる喫茶店のソファ席で、
左手で左頬に化粧水をぱんぱん打ちつけ、
右手では窓の外を指差しながら、
「あいつがシンデレラのカタキですよ!」
と大声で叫んでいるのだが、それには理由がある。

今から3時間前。
ぼくは、お台場にあるホテルのラウンジで、
1杯1000円もするカフェラテを飲んでいた。
口に含むたび1000円札を細かくちぎって煮詰めたような、
深みのある苦味が広がり、やはり1000円は違うと思った。
向かいの席ではシンデレラのカタキと名乗る女が、
1杯850円もするブレンドコーヒーを飲んでいた。
85個の宇治平等院をめっためたにぶち壊し粉末状にしたものを
焙煎しドリップしたような、
そんな豊かな酸味を女は楽しんでいるように見えた。

その1時間後、つまり今から2時間前。
することもないのでぼくは女と銀座のデパートに行き、
1階の化粧品売り場で乾燥肌チェックを受けた。
店員は「けっこうカサカサでお困りでしょうね」
というような感想をぼくが乾燥肌だっただけに言い、
カタキの女の方には、潤い肌だっただけに潤いを言った。
ぼくはそこでやたらと高価な化粧水を買った。

降りしきる雨のなか、
この喫茶店にきたのが今から1時間前のこと。
ぼくはまたカフェオレを注文した。560円だった。
1000円からは440円分遠い風味がしたので、
逆に440円分の風味がどの程度であるかが何となく分かった。
女のブレンドコーヒーは520円だった。
つまり、お台場で飲んだコーヒーよりも、
330円安いことになるが、その表情からも、
宇治平等院33個分の酸味が足りないないことがうかがえた。

ぼくはトイレに立ち、洗面台で顔を洗った。
梅雨の陰鬱さが顔中に張り付いたようで気持ち悪かったからだ。
席に戻り化粧水を両ほほにパンパンしはじめると、
女はなにもいわずに店をでていった。
それと入れ替わるように警察官が入ってきて
「ここにシンデレラのカタキがいるって通報があったんですけど」
と言うものだから、
いま、ぼくは、タバコの煙がたちこめる喫茶店のソファ席で、
左手で左頬に化粧水をぱんぱん打ちつけ、
右手では窓の外を指差しながら、
「あいつがシンデレラのカタキですよ!」
と大声で叫んでいるというわけなのだ。
シンデレラのカタキのやつ、いったい何をしでかしたのだろうか。


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2012年05月27日

上田浩和 2012年5月27日放送

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あんこがはみ出してたいへんかもな

           上田浩和

スコアボードには0がずらっと並んでいる。
両チームとも得点を奪えないまま迎えた9回の裏。
攻撃側は最大のチャンスを、
守る方にしてみれば最大のピンチを迎えていた。
ランナー3塁。つまり一打サヨナラの場面。
しかもまだ1アウト。
ピッチャーの鼓動がここまで聞こえてきそうだと、
サードを守る山下は思った。
自分なら逃げ出したくてたまらないはずだから、
小走りでマウンドまで行きピッチャーに声をかけたが、
効果があったのかは分からない。
守備位置に戻りながらふと顔を上げると、
相手チームのランナーの足下にあるサードベースが目に入った。

山下がそのことに気がついたのは、3回裏の守備のときだった。
慣れ親しんだはずのサードベースの様子が、いつもとは違ったのだ。
サードベースは、ふつう四角と決まっている。
であるのに、きょうのサードベースは、丸い。
ふつうは白いはずなのに、きょうのはどこか黄色っぽい。
格子模様が入っている。砂糖までまぶされている。
そして焼き立てだった。3回の時点ではまだほかほかしていた。
うまそうだった。
その印象は、すっかり冷めてしまった9回になっても変わらない。
きょうのサードベースは、メロンパンだった。

「これ、メロンパンだよな」山下は三塁ランナーに聞いた。
「ですよね。やっぱメロンパンっすよね」
「うまそうだよな」
「いやあ、おれはアンパンのほうがよかったな」
「まじ?アンパンってあんま食べなくない?」
「そうっすか?」
山下は正直意外だった。
ランナーの男は、入団5年目のまだ若手と言われる選手のはずなのに、
アンパンが好きとは味覚がベテランというかなんというか。

試合はあっけなく終わった。
次のバッターがサヨナラホームランを打ったのだ。
大歓声のなか打った相手選手が、
大げさなガッツポーズしながらゆっくりとダイヤモンドを一周する様子を、
山下は悔しそうな表情で追っていた。
そしてその選手がサードベースを踏んだ瞬間を
誰よりも間近で見ながら思った。
これがアンパンだったら、あんこがはみ出してたいへんかもな、と。
サードベースにはメロンパンがいちばん適しているのかもしれないな、と。


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2012年04月29日

上田浩和 2012年4月29日放送

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           上田浩和

山下くんは分厚い企画書をテーブルの上に置くと、
一枚ずつめくりながら説明をはじめた。
わたしたちは、わたしの部屋でテーブルを挟んで向き合っていた。
簡単に言うと、その企画は、
わたしの左肩の鎖骨の窪みに水を貯めて湖をつくる、というものだ。
わたしの鎖骨のかたちと深さは、湖にうってつけだという。
夏には、泳ぎに来る客が押し寄せ、
寒くなっても、釣り客がひっきりなしです。
湖面を大型の遊覧フェリーが横切り、
あたりは人々の笑い声で満たされるのです。
年間10万人の観光客を想定しています。
湖畔には眺望が自慢の大型ホテルを建設予定です。
などと並べ立てたあと、ぜひ力を貸してください!と山下くんは頭を下げた。
大学の後輩の頼みだから、
無下に断るわけにもいかない。
うまくいけば、鳥人間コンテストを誘致してもいい、
とだめ押しのつもりか、山下くんは語気を荒げたが、
その日はひとまず帰ってもらった。
急な話だ。ひとまずひとりになって考える必要があった。

その日の深夜。
寝付けないわたしはテーブルの前に座り、
頭のなかを整理するために、
複雑に絡みあった思いや考えを、丁寧にほどき、
皿の上に一枚いちまい重ねていった。
なにかをはじめたい、という思い。
もうそんなに若くはない、という思い。
だからこそいまやらなくては、という思い。
自分の鎖骨が湖になるとはどういうことなのか、という思い。
大勢の人々がわたしの左腕をつたって
湖に向かうときどんな感触がするのだろうという、思い。
わたしの鎖骨の中をブラックバスが回遊する、という思い。
それを釣りあげた人々の笑顔を見てみたい、という思い。
空を夢見た鳥人間たちの思い。
そんな見込みは全部はずれて誰も来なくて倒産するかもしれない、
という思いというか不安。

そんな思いたちを一枚ずつ重ねていった結果、
皿の上には、おいしそうなミルフィーユが出来上がっていた。
直径30センチほどの丸いミルフィーユは、自分でいうのもなんだが、
とてもおいしそうだ。
会社終わりにがんばってケーキ教室に通っていた成果が、
こんなところで現れるとは。
一口食べると、わたしの不安と葛藤と期待とが織りなすハーモニーが、
口のなかにふわっと広がった。
次の日。
8等分にしたうちの2ピースを箱に入れて、
わたしは、山下くんが勤める会社を訪れた。
それを食べながら、ふたりで話しをしたら、
わたしのなかから答えが自然と出て来る気がしたのだ。


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