こちらのブログは
「コピーライターの左ポケット」の
原稿と音声のアーカイブです
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コピーライターの裏ポケット
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2011年12月04日
三井明子 2011年12月4日放送
「冷蔵庫」
三井明子
冷蔵庫に財布を仕舞うのが、許せなかった。
そう言って、夫は出ていった。
5年の結婚生活の最後の言葉がそれ?
ひとりになった部屋で声にだしてみた。
はじめて冷蔵庫に財布を仕舞ったのは、
独身時代に勤めていたオフィスでのこと。
長財布ひとつ持って、ランチから帰ってくると
廊下で両手いっぱいの届けものを頼まれた。
その日のスーツにはポケットがない。
とにかく急ぎの用件だったので、
財布を置きにデスクに戻るよりは…と周りを見回すと
オフィスの入口に冷蔵庫が見えた。
とっさにそこに財布を仕舞ったのだ。
その日、冷蔵庫から財布を取り出した時の
手のひらに広がったひんやりとした感触を、いまでも覚えている。
私が冷蔵庫に仕舞うのは、財布だけではない。
大切にしているジュエリーも、帰宅したら外してすぐに仕舞う。
冷蔵庫は、その日一日、
欲望や、邪念、嫉妬といった人間の感情にさらされた、
貴金属やお金の温度を下げ、清らかに浄化してくれる。
冷蔵庫から取り出すたび、
そのひんやりとした感触に私はうっとりとするのだ。
冷蔵庫に仕舞うものは、年々増えていき、
気づくと、冷蔵庫の一角が、貴金属のスペースになっていた。
そこは、 家の中でもっとも清らかな場所。
夫が出ていった。
もう遠慮はいらない。
冷蔵庫の中をぜんぶジュエリーボックスにしてしまおう。
ほんとうは、衣装ケースにしたいくらいだ。
明日さっそく、欲しかった大型の冷蔵庫を買おう。
有楽町のビックカメラの地下一階で見た、あの600リットルの冷蔵庫がいい。
そうだ、いっそ、今からビックカメラに行ってみよう。
そう思いたち、冷蔵庫から財布を取り出す。
お気に入りのオパールのネックレスを身につけると、
ひんやりと心地よいいつもの感触がした。
その冷たい感触に、涙がこぼれた。
私の涙は、温かかった。
その温かさに、冷蔵庫の前で涙がとまらなかった。
出演者情報:柴草玲 http://shibakusa.kokage.cc/
タグ:三井明子
2010年04月04日
三井明子 10年4月4日
網棚
三井明子
気がついたら、網棚の上に乗っていた。
そう、電車中のあの網棚。荷物を置くためにある網棚だ。
「座席は空いてないけど、網棚は空いてる。
あそこでいいから座りたい」
そう願いながら、何年も通勤してきた。
そして、気がついたら、今日、そこにいたのだ。
あんなに毎日念じていたから、
網棚がのせてくれたのかもしれない。
網棚にのってみると、
ぎっしりと詰め込まれた人々のアタマが見える。
音楽を聴いている人、立ったまま寝ている人、
圧倒的に多いのは人と人の隙間でケータイを操作している人。
ターミナル駅で人が入れ替わっても、
結局混んでることには変わらない。
この通勤のストレスは、仕事のストレスの大部分かもしれない。
そんな時、向かい側の網棚にも座っている人がいることに気づく。
「あら、あなたは今日から?よろしくね」品のいい婦人だ。
周りを見渡すと、
車両内のすべての網棚に誰かが座っている。
婦人が、わたしにぽつりと言う。
「あなたのその網棚、座っていた方が最近定年になってね…。
あなたラッキーよ」。
そうして婦人は日経新聞に視線を戻した。
別の網棚では、管理職風の男性がパソコンでなにやら作業をしている。
また別の網棚では若い男性が大きないびきで熟睡していた。
と、そこに、わたしが座っている網棚に、スポーツ新聞が置かれた。
誰かが読み終わって網棚に捨てた新聞だ。
手にとって一面から読み始めてみる。
昨日のプロ野球の結果になぜか引き込まれていった。
こんどは自分のバッグから小説を出して読んでみた。でもぜんぜん面白くない。
網棚の上では面白いという感覚も少し違っているのかもしれない。
そんなふうに、わたしの網棚通勤がはじまった。
最近では、ときどき網棚に寝そべってみたり、
通勤時間は、わたしにとって一日でもっとも平和で贅沢な時間だ。
あなたも念じてみませんか。「網棚に座りたい」と。
ある日突然、網棚通勤という至福の特権が与えられるかもしれませんよ。
Voice:柴草玲 http://shibakusa.exblog.jp/
タグ:三井明子